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カテゴリ:休むに如かず
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消費する comsume
consume
http://ejje.weblio.jp/content/consume

[N16-A124]con・sume /kənsúːm|‐s(j)úːm/ →発音

―【動】 【他】

1a 〈…を〉消費する,使い尽くす.
b 〔+目+in+(代)名〕〔…に〕〈…を〉費やす.
c 〔+目(+away)〕〈…を〉浪費する.
2 〔+目(+away)〕〈火炎が〉〈…を〉焼き尽くす.
3 〈人が〉〈…を〉食い[飲み]尽くす.
4 〈しっと・憎悪などが〉〈人の〉心に食い入る 《★通例受身で用い,前置詞は by,with》.

[ラテン語「完全に獲得する」の意 (CON‐+sūmere 「取る」); 【名】 consumption,【形】 consumptive]

///

 消費する、という言葉の意味が時々、よく分からなくなる。日常的な使用でならなにも問題は無いのだけれど、よくよく考えてみると不思議に思う。消費とは「エネルギーを消費する」であるとか「消費文化」であるとか「大量消費」であるとかいう用法で使われている言葉だ。経済学でも消費という言葉は頻繁に登場する。べつにそれらの用法を追ってみたいというわけではなく、私たちはいったいなんのことを「消費」という言葉で表現しているのだろうかということだ。用語の意味ではなく、消費という活動というのはなんなのか、そこが気になる。

 何年か前、ボードリヤールの本を読んでいて、「わたしたちが飛行機事故に注目するのは何故なのだろう」というような文が出てきたことがあった。その文章を目にした時、自分はそこで何らかの交換が行われているのではないか、という印象をもった。また、そこには「消費」する、という言葉が頻繁に登場して来た。イメージの消費。メディアの消費。記号の消費。

 疑問を持ちながら読んでいた。何故、消費"consume"なのか。現実的にはなにかが「消費」される場合、別にもとあったものが消えてなくなるわけではない。モノ的に言えば、その様態、あるいは表層、性質が要素の組み替えによって変質するが故に、消えたように見える、ということだ。組み替えられた要素それ自体は残っていて、他の活動へ転用されていく。そういう不可逆的な変容がおこる。そのプロセスにはエネルギーの交換が付随する。それが消費なのだろうか。
消費の意味を辞書的な説明に求めようとするなら大元(ラテン語)の意味、「完全に取得する、得る」。これが自分の実感に一番近い。情報的、意味的な交換、というものがおこっていると言う印象をそれなりにうまく述べてしまえるものだ。

 自分は何を記録しようとしてこの文章を書いているのか。
 たぶん、長い間疑問に思っていたことに一応のかたちを与えられそうだと感じたからかもしれない。
それは、広い意味での記号、あるいは情報の交換のシステムにおいての、あるいは与える、与えられるという経済行為について、どういうイメージを持ったらいいかということ。そして、意味の構造体が「交換」されるときの「エネルギー」(脳内の電流量、化学変化量などの現時点で定量化できるものから、「意味のエネルギー量」とでも呼びたいものまで)の変容(時間と意味、=読み書き)...そう言うテーマも面白そうだと言うことを考えていたのを思い出した。
 そして常に動いているエディティングモードとその上で投げ投げられする情報群のうごき、ふるまいがまたそれらをやり取りするエディティングモードにアフェクトし、また新たな情報のやり取りがおこり...という無限にもみえる、無数の情報のキャッチボールについて。それは全体を構成する要素が、それぞれ相互に連関し、動き、遊んでいたルールの枠組み自体を乗り越えていこうとするゲームだ。いわゆる「ライフゲーム」と「ライフ」のゲーム違いはひとつ、そこにある。自己の変容。そのときは外部があること、「他者」という視点が重要になる。他者の存在。しかしそれはコミュニケーションできる他者だ。共通のエディティングモードを持ち、情報の交換が行える。相手はゴースト(幽霊)ではない。そういう自己変容には多かれ少なかれ同質のエディティングモードを持ち接触できる「同質の他者」が必要だ。
 それは別に人間の話だけをしているわけではなくて、熱、重力、光、そういったモノが相互にアフェクトするにもコミュニケーションを行うための共通基盤(上のエディティングモードと言うのもこれにあたる)が必要だということ。あるいは食べ物、という話題の方が分かりやすいかもしれない。食べ物というと語弊があるが、ある生物と生物のコミュニケーション(情報交換)の話だ。「喰う」というのは最古のコミュニケーション手段のひとつであったに違いない。「喰う」が成立するには喰う方の器官(からだ)に喰われる方の細胞、タンパク質、ミネラル、ビタミンもろもろの構造体を受け入れる体制が整っていないといけない。喰った方はそれを自己の身体に合うように解釈し、整え、自己の細胞と交換する。そうして喰われた方の「情報」が喰った方の身体に記録される。目も耳も無い単純な細胞の生命にあっては、「喰う」ことがほとんど唯一の外界とのコミュニケーション方法であったろう。(これも、「消費」といっていいのだろうか。)
 コミュニケーションの共通基盤ということであれば、また「言語」を持ち出すのもいいかもしれない。日本語、英語(米英)、アラビア語、ロシア語、中国語(広東北京)、ロシア語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ヒンドゥー語...言語と言うのはやり取りするものがそれを互いに知っている、と言うことを前提にして利用される。ただし、その利用されるメタファー(単語など)はそれを身につけた個々人の体験によって同じものを指しているようで微妙に違う、意味的には同じものなどひとつもないが、同様のラベルを持ったものとして流通する。各々の違う文脈、文法に沿って放流されるメタファーはまたその流通を通して、以前と「同じ」ではあるが「違う」ものとして言語の土壌をつくっていく。言語交換の場で互いに「異」(他者)が吸収され、言語が変容していく。(これも「同質の他者」だ。)

抽象的だ。メモにはなるが説明になってない。

///
文章にならなかったひとりごとその他

/意味の贈与関係、そのコミュニケーションの土台の構造とその皿の上でやり取りされる情報の性質(高価なのは、ある種の驚きをもたらすこと、アクシデント(事故)である)
/ある種の芸術はそれが完全には理解しきれないが故にその存在価値を保ち続ける、「完全に理解される」ようなものは上記の意味通り「消費」されある役目を終えると用済みとなる。ex.消費される小説、言論、絵画、建築、あるいはされないもの
/あらゆる化学式というものは、エネルギーの交換を伴う構造の組み替えを表している
/「エネルギーの消費」について。エネルギーの消費について問題にする時、そのエネルギーはただ消えていくというわけではなく何らかの構造変化に使われる。消えるのではない。変換される。
/Wikipediaを覗いてみると、「消費(しょうひ、consumption)とは、欲求を満たすために財・サービス(商品)を消耗することを指す。資源を使用することでもある。生産の反意語。」と、経済の用語として簡単に説明してある。とりあえずここでは「消耗ってなんなの?」「資源を使用するって、どういうこと?」あるいは「その消費の反対の生産って何さ?」ということを考えてみようとしているので、これらの言葉を字面どおり受け取ってもあまり得るところはない。それはあくまでも便宜的にそう呼んでいるだけであって、便宜的なりに実用的であるにせよ、それが何か、という理解は保留されている。とはいえ考える為のタネは拾えるかもしれない。
by gu3i | 2009-09-20 05:58 | 休むに如かず
忘却と記憶、キャッシュの開放と書込みの営みの向かう先2
#2
コト、モノ、コト

 「モノが存在しているのではなく、存在がモノしている」、という言い方がある。
最初聞いたときは変な感じだったが、それはうまい言い方だとあとで気付いた。

私たちは慣習的に「モノ」をオブジェとして見做しがちだ。カナヅチはカナヅチ、牛乳は牛乳、みかんはみかん。しかし、その様態の変化しないものなどありえない。観念の世界でしかありえないだろう。いや、観念すら日々の使用の際に小さな再定義が行われ、ささやかな意味の構造変化を常に行っている。

「モノ」というのはひと纏まりの現象に呼び名を与えているだけであって、それはあくまで流動する「現象」なのだ。

日本語でのもともと「もの」という言葉は、

...(編集中)
by gu3i | 2009-09-07 01:37 | 休むに如かず
忘却と記憶、キャッシュの開放と記述の営みの向かう先1
 私たちが生きている世界は有限だ。リソースは限られている。(エコな話をしたいわけじゃない)

 私たちは過去に何らかのモノを構成していたはずの物質を使い回して活動している。自分を構成しているものは例外なく「そと」から来たものだ。

#1
じぶんの要素とその諸連関

 例えば今日昼に食った塩ジャケを構成していたものはそのうち胃や小腸を通して私に再編成されてくわけだが、もっと前にさかのぼればそれらは山河を流れる微生物だったかもしれないし岩に生えた苔だったかもしれないし、あるいは産業廃水に混じった化学物質であるかもしれないし、岩から溶け出したミネラルかもしれない。そうしてどんどんさかのぼれば、私を構成している物質の履歴的にはそれは川であり、雨であり、海であり、虫であり、鳥であり、岩であり、樹であり、草であり、肉であり、骨であり、糞であった...というようなことになってくる。

 そうやって「自分」というものの輪郭を時間軸方向に緩めればどこまでも際限無く広がっていってしまうようにも思える。そこで「私なんてモノはほんとはない」あるいは「私とは全てである」、とか言って仏教かインド哲学っぽく終わってしまうのも手だが、それも中途半端なところで考えるのを放棄したようでちょっと面白くない。じゃあ逆に絞ってみよう、ということにしてもまた厄介だ。お昼ごはんの塩ジャケを構成していた物質はいつから「私/自分」になるのか?いつから「私/自分」であった細胞や水分は垢や汗やおしっこや便になるのか?からだの境界の話なら免疫学にでも伺いを立てれば良さそうな気もするが、自分の問はもうちょっと入り組んでいる。もうちょっと大きな物質の流動と、私のからだの関係が気になっているからだ。個々の事例は参考になるだろうが臨床的な定義をあれこれしてもその射程に収まる気がしない。そもそも厳密な境界を求めようとすること自体がナンセンスなのだろうか。

 自分、とか私、という言葉は本当は何を示しているのだろう。いや、示しているのだろう、とは言っても別に用法を追おうなんて思わない。シニフィアンとかシニフィエとか、そんな言語の上のゲームをやりたいわけじゃない。私たちがなんとなく「私/自分」とよぶ、フィジカルなものそのもののはたらきが気になる、というぐらいの意味。
 ひとまずためしに、上のような時間の中の自己、ということを考えてみるために自分(べつに自分じゃなくてもいいが)が胎児以前だった頃、精子と卵子がひとつの胚を作るまでの頃までさかのぼって考えてみる。
 そこでは遺伝子のコードに則った手順でタンパク質が連鎖的に合成(厳密に言えば原子、分子の組み替えー無から生まれるわけじゃない―)され、細胞が生産され、それぞれの細胞がまた遺伝子コードに則り各々の場所での役割を半ば機械的に実行していく。そうして受精卵はだんだん魚のような体形を通って次第にヒトらしい姿に組み替えられていく。その過程で胎児はもちろん母胎から栄養をもらって、それを使って身体の構成に充てている。栄養、と書くと何だか抽象的で実体のないようなものにも思えてくるがそれは紛れもない「モノ」である。胎児は母親から栄養物質を受け取り、老廃物を受け渡す。個々の細胞は分裂(これもちょっと語弊の多い言葉だが、物質的には増えているのではなく、要素となる分子の構造が組み変わって細胞となる)し、あるいは死滅しながら代謝を繰り返している。その繰り返しで大きくなっていく。
 そうして神経も出来、皮膚も出来、眼、耳、口、はな、舌といった器官も一応はその機能を備えたものとして形成され、赤ん坊は母親から栄養面以外はほぼ独立し、動いたり、笑ったり、おこったり、寝たりする(らしい)。そして胎内の膜と壁を通した外界にも間接的に接触し(胎内でかれらの感覚を用いているという点では直接的に)、脳と神経にはその結果を蓄積していく。

 上記のようにわざわざ身体の発生の最初にまでさかのぼったのは、しつこいようだが、身体(からだ)を構成しているものは、胎児はもちろん母親にとっても「そと」から来たものだということを確認することにある。常に「そと」からきたものを自分の身体に合うように再編集し使っている。使わなくなれば新たなものに置き換える。そういうことを繰り返しながら維持されているのが私たちの身体なのだ。

 それはつまり、要素を交換するその過程があるにもかかわらず、前後での構造の「維持」を担保しているということであり、もっと踏み込んで言えば、要素そのものではなく、それらの関係性のあいだにこそ「情報」が潜んでいるということだ。

 このあたりで総括してみると、ひとまず 「私」というのは、「「「代替の利く要素」間の関係」というものを維持」しながら流動している構造体だと言える。その要素は常に流れている。



 そうすると実は体というもの、情報の方が本体ではないか―

 と、ここで、情報という言葉についてその扱いを書いておく。情報、という言葉は一般には用法が非常に混乱していて、とても使いづらい言葉になっている。思考をしようにも混乱した定義のままで用いていると、そのまま混乱した議論を展開することになる。(そうした混乱した議論があまりに多いがために残念ながら多くの人は不毛な混迷に向かってまっしぐらに進む)しかし、ここで使う、「情報」というものの定義は単純だ。

"information"="in"+"formation"

つまり「かたちのなかにある」もの、要素間の連関によって作られる関係性そのものの構造、あるいは構造を持った連関性、それが情報(=記述)であるということ。これはエリッヒ・ヤンツの定義(いや、グレゴリー・ベイトソンなのだろうか?明記はしていない)を借りてきたものだが、簡単にいうと「かたち"in"+"formation"」=「情報"information"」である。こうすることによって物心二元論の泥沼にに陥りがちな情報論に物質を紐で結わえておくことが出来る上に、三次元空間だろうが時間を含めた空間だろうが、定義が混乱を見せない。極上の定義が言葉のなかにそのまま潜んでいるなんてなんともうまい話だが、古くから使われてきた呼び名というものにはあなどれないものがある。

と、ここまで書いたが続きはまた次の記事に。
by gu3i | 2009-08-20 05:31 | 休むに如かず
ザリガニ

この辺のドブ川に生き物が居るなんて思いもしなかった。
(田舎では当たり前だったんだけれど)
大人の思い込みを崩すのはやっぱり子供なんだな。

一緒にいた奴が「コレ食えるかな?」と適当に聞いたら
「無理だよ。ドブ川だよ?」
と、大人な意見を返された。
by gu3i | 2008-11-04 01:58 | 休むに如かず
工場
妙に怖い、と感じるものがある。

一見、親しみ深げで良く目にするもの。
しかし、それを手元においてよくよく考えてみると
不気味、を超えて得体の知れない、奇妙な怖さ、
どこか奥の方にある恐れがじわじわとにじむ。
最近、そんなものを写真に撮っている。

どこにでもあるコンビニや、チェーン店。
それはどれも同じようなかたちをしている。
そういう風につくられている。

同じものが無数にあるということは
それが多数あることそれだけを示すわけではない。
それを部分とするひとつの大きな現象があることでもある。

セブンイレブンという現象、デニーズという現象、コカコーラという現象、コスモ石油という現象。
常に自分達の身の回りを取り囲むもの、生活に密着したもの、いつも出会うお馴染みの顔ぶれ。

見慣れたそれらをじっくり眺めてみる。
するとふと、奇妙な疑問がわいてくることがある。

それらはいつの間にか自分達の生活領域に入り込み、さも当たり前であるかのような顔をしてそこに居座っている。自分達は便利だとかなんとかいろんな理由で、なんとなしにそれらを生活に取り込んできた、そういうつもりでいる。

しかし、実際、取り込まれたのは自分達の方ではなかったか。

それらは理論的に最適な配置がなされた蛍光灯で、合理的に設定された照度を保ち、開放的に見えるような大きさにカットされたガラス開口から文字通り、人を吸い込むような光を発しながらそこに佇む。そして、その目論見通り人は吸い込まれていく。
内部でも事は合理的に運ぶ。
客は店員のテンプレート化された言葉で迎えられた後、合理的な回遊を可能とする店内で用事(サービス)を済ませ、合理的な滞在時間で首尾良くそこを後にする。

そこでは事は全て予定された通りに運ばれなければならない。

工場の生産ラインとおなじルールがそこを支配している。
いつの間にか自分達はそれを作動させるシステムに組み込まれている。
気付けば、奇妙な工場の内部に入り込んでいる。

(で、今日のディナーは吉野家。牛丼おいしかったです。)


by gu3i | 2008-10-30 02:13 | 休むに如かず
課題
とりあえず
能面とウルトラマンのあの顔は一本の線で繋げて描けるはずだ。
by gu3i | 2008-10-29 01:55 | 休むに如かず
ライフゲーム
地球は閉じた循環システムだ。
つまるところそれは、「ゲーム」のしくみに似ている。

麻雀を考えてみる。
このゲームは有限要素(牌)からなる配列で「役」が決まる。
つまり要素の関係性によって意味が全く変わってくる。上がるタイミングや、周囲の役の組み方にも大きく影響される。しかし牌自体は変化したりしない。(イカサマがなければ)そして誰かが上がれば点棒が交換され、牌はシャッフルされる。この生成と消滅のプロセスを繰り返しながらゲームは進んでいく。そこには単純な生と死の構図も投影できるかもしれない。
あるいは麻雀の役はDNAのコード(の発現)にも似ている。(DNAにも役萬とかあるのだろうか。)

スーパーファミコンのロムカセット(別にファミコンでもプレステでもDSでもいいのだけれど上手く見た目が一つにまとまっているので)も例に考えてみる。このゲームもあらかじめ用意されたリソース(データ記憶領域)を使って、その領域の中でデータを書き換える中で(レベルが上がったり、シナリオが進んだり、キャラクターを仲間にしたりetc)ものごとが進む。これも限られた要素の組み替えで様態(データ上の表現)が変容していく「一つの世界」だ。

ある有限の要素の組み替えの連続によってその様態が変わっていく。
極小のもの(単位)の関係性の組み替えによって構造が変わる(そして見かけ上それは大抵「意味」を持つあるいは増大させる方向に向かう。「見かけ上」も「意味」も厄介な言葉だけれど)のであって何か要素が増えたり減ったり、ということは(ほとんど)ない。

麻雀もテレビゲームも地球もそういう点で良く似ている。

しかし、違う点は所謂ゲームそれ自体は自身でそのゲームのルール、その世界のフレームワークを変更できることが出来ないのに対して(やったらズル、チートだ)、地球はそれ自体のフレーム自体をわずかづつ変容させながら「ゲーム」を進行させていること。
その(地球の)プロセスの中には、シュレディンガーの(とても漠然としているけれど概ね上手く言い当てている)定義に習えば「負のエントロピーを食べる」ものが介在している。
自己の内部でフレームワークを変更できることとできないこと。これは非常に大きな違いだ。

いやそれとも
「地球」というゲームを「生命」というプレイヤーがプレイしているのだろうか。

そう考えると、ちょっと違ってくる。
麻雀やテレビゲームはゲーム中にはその構造を変えることは出来ないが、ゲームが終わればそれを経験したプレイヤーによってあのルールをこうしよう、とかいう発案・調整が出てくるかもしれない。プレイヤーの介在によってそのフレームワークは徐々に変わる。

そうすると麻雀もテレビゲームも地球はやっぱりそう変わりがない気もする。
いずれにせよ、「徐々に自己変容していくことを許すゲーム」はもう生命と区別がつかない。

(複雑なシミュレーション計算なんかも考えようによってはゲームの一種だろう。「ゲーム」の定義によるけれど。今のところ「ゲーム」のプレイヤーはいうまでもなく人間(もしくは生命現象)だ。(ディープブルーも要するに人間の知識の集積でしかなくて自身で判断を下す能力はない)AIに自己変容のために判断を下す「基準」が搭載されればそれはもう生命と言ってもいいと思うが、今のところ、その生命が持っている判断基準、つまるところ「感情」もしくは「美」として発現するものの根本を人間自体がちゃんと理解していないがためにコンピュータには入力できない。)

「ゲーム」はひとつの「ライフ(生命)」であるか、もしくはその遊び場(当たり前か)といえる。
「生命」の過程は「ゲーム(遊び)」の繰り返しであるともいえる。

ようするに、マージャンもひとつの生命ということか。
by gu3i | 2008-10-29 00:51 | 休むに如かず
撮ると読む

写真を撮ることと本を読むことは似ている。

文章の小片を他の物事と関連させながら、自分の中にある世界を組み立てながら、あるいは組み替えながら進む。それが自分にとっての本を読むということだ。小説だろうと技術書だろうと漫画だろうと理論書だろうとその点には変わりがない。
一方、街の、あるいは身の回りの空間的・時間的な小片をつかみあげ、時には並べ、それを観察し、それは何だろうと考える。それが自分にとっての写真を撮ることだ。撮るときは出来るだけ自分の感じたことが忠実に「切り取れる」ように気を使う。その中で、自分が何を感じたのか、何に興味を覚えたのか、という感性との対話が起こる。その収斂(修錬)も自分の「写真を撮る」ということに含まれている。

読むこと=歩くこと、興味を持って取り上げる(pick up)こと=切り取ること、そして事柄を一つの大きなかたちに組み立てよう(構築的に考えよう)とすること=撮ったものの位置を定めよう(それがなんであるか考えると同時に自分が何故撮ったのかと考える)とすること。

それらの行動の根本は同じだろうと思う。

「美の形而上学の核心の問題は、これをごく単純にいいあらわしてみるならば、すなわち、ある対象について、それがわたしたちの意欲になんのかかわりもないのに、どうして心の満足と喜びとが起こりうるのであろうか?ということになる。」ショーペンハウアー

どうも何やってても疑問はこの辺にぶちあたる。
by gu3i | 2008-10-28 19:46 | 休むに如かず
ギフト
以前ツジコノリコの曲を人に聴かせたら「何コレ?怖い」という反応が返ってきた。
その時は何だそんな感想か、と思ったものだけれど、
昨日改めて聴いてみると、確かに、怖い。妙なリアリティがある。
リアルすぎて、泣いて逃げだしてしまいたいような気分になる。

例えば「GIFT」という曲なんかは

///(歌詞カードなくしたので正確じゃない)

分かる知ってる なにも知らないことを
見えてる知ってる ただ少し知ってることを

頭のつくる見事な失敗作ケーキ
でぶな太陽続く続いてくように見えるもの

ぼくなしで世界は始まり 世界は終わる
ヒーロー気どり明らかにほぼ君と関係なくせかいはまわる

そろそろ新しい恐竜になりたい
そろそろ新しいインディアンになりたい
そろそろ新しい惑星になりたい
そろそろ新しいシステムが欲しい

だけど見える
君の顔がママの顔が大地が緑が森が

DVDの盤面に映る
ビルの群れが自分の顔がママの顔が

全てがそこに集まって

それをデッキに入れて日々が始まる素晴らしい光が始まる
ギフトがある

それをデッキに入れて夜は始まる素晴らしい音が始まる
ギフトがある

それをデッキに入れて君は始まる素晴らしい時が始まる
ギフトがある

///

これは怖い。
わけの分からないものに自分達がすでに取り込まれてしまっていて
自分達はその籠の中で良く分からずに「人生」を楽しんでるんだよね、といわれてるような。
歌に聴く人間の深層を引っ張りだすような説得力があるからさらに怖い。
歌詞の「素晴らしい」という響きがとても不気味。
人間はもうパブロフの犬か、
もしくは快楽中枢を電気刺激される鼠か。(もとからか?
by gu3i | 2008-10-28 19:42 | 休むに如かず
かもすについて
「もやしもん」と言うアニメがある。
主人公は「微生物・細菌」をキャラクター化して「見る」ことが出来る能力を持っていて、農大の研究室に出入りしている。漫画が原作らしい。

で、キャラクター化された微生物は
「かもすぞー」
という掛け声と共にゆらゆら至る所に漂ってるわけだ。

「お前醸してやるからな」という脅迫の念なのか、はたまた「今日も頑張って醸すぞ」という意気込みなのか分からないが、まあ何だか印象に残っていた。

その後某情報源によると島根県松江市大庭町には神魂(かもす)神社というのがあるという。
現存している最古の大社造の神社で、昭和27年3月には国宝に指定されている。
結構古い。
伊弉冊大神(イザナミ)と伊弉諾大神(イザナギ)が主祭神であるらしい。
それらの古めの日本古来の神が社に降りてきて魂(も)す。だから神魂神社。

「かもすぞー」(醸すぞー)は「神魂すぞー」なわけだ。

醸す(かもす)<神魂す(かんもす、かむもす)(魂すは萌す?)

なるほど。
八百万の神様は意外にちっいのかも。
神社に酒が奉納されるのはそういうことか?
by gu3i | 2008-10-27 12:01 | 休むに如かず



    
わざわざ人に言うほどでもなく、でもこれちょっと書き留めときたいな、という時に書いてます。主にメモ帳&備忘録として使っております。
by gu3i

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